四方宏明の“音楽世界旅行”〜Around the world

世界中のテクノポップ〜ニューウェイヴ系音楽を紹介。

こちらの記事で、ポーランドの電子音楽、エル・ムージカ(El-Muzyka)について書きました。2016年、もう一人の重要なエル・ムージカの先駆者、Władysław Komendarekに会うためにワルシャワ中心部から車で約 1 時間かかるジェラゾヴァ・ヴォラを訪問しました。 この地は、Fryderyk Chopinの生誕地としても知られる聖地で、ショパンの博物館もあります。日本からやってきた見知らぬ男のために、彼と彼の友人たちは最大級の歓迎をしてくれました。ディスコポロについて尋ねた際、みんな口ずさんでくれました(笑)。

Komendarek, Friends


彼はもともとプログレ色が強いExodusというバンドで活動していましたが、1985年にソロの電子音楽家としてデビューします。2枚目のアルバム『Dotyk Chumu (雲のタッチ)』(1987年)からの「Halo Komputer」は、タイトルからもエル・ムージカ的世界観にあふれています。

Dotyk Chumur




ショパンの生誕地に住んでいるだけあって、2011年には『Fryderyk Chopin』というショパンに捧げるアルバムをリリースしています。クラシック、電子音楽にアートロックが融合した独自のショパンの解釈がなされています。また、彼らに会うためにジェラゾヴァ・ヴォラに行きたいです。

Fryderyk Chopin


昨日の「Der Kommissar(秘密警察)」に続いて、80年代懐かしのエレクトロポップとして「Bette Davis Eyes(ベティ・デイビスの瞳)」です。Kim Carnesが歌った作品は、1981年の年間ビルボードチャートで最もヒットした曲とされています。

Kim Carnes




Carnesのはカヴァーで、原曲はJackie DeShannonのアルバム『New Arrangement』(1976年)に収録されています。ハリウッド女優のBette Davisに捧げられたこの曲はシングルカットもされず、この時点ではあまり知られぬこともないアルバムの1曲でした。原曲はR&Bが混じったようなカントリー系ポップソング。これがあの印象的なシンセリフで大ヒットとなるのです。Carnesのヒットを受けて、Bette DavisはCarnes、作者のWeiss & DeShannonに感謝の手紙を書いたという逸話もあります。

Jackie DeShannon




このシンセリフは、スコットランドのエレクトロ系、MYLOの「Into My Arms」(2004年)でもサンプリングされています。なかなか秀逸なサンプリングをする人で、当時、かなりハマりました。

MYLO




割と最近でもKylie Minogueがカヴァーしています。



当時のカヴァーを探ってみましょう。ブラジルのMarta Coracaoによるポルトガル語版「Olhos de Mulher」(1982年)。タイトルは「女の瞳」となり、Bette Davisがただの女になっています。MBPっぽくなっていますね〜。

Marta Coracao




西ドイツのシュラガー系歌手のUte Berlingは「Als Ob Sie Bette Davis War(まるでベティ・デイビスの瞳のように)」としてドイツ語カヴァー。ドイツ語の響きでイメージが変わりますね。

Ute Berling




東ドイツにもあります。オストロックの一角となるSillyによるカヴァー(1982年)。Carnes版に割と忠実です。ちなみにSillyというバンド名にいちゃもんをつけれられて、Familie Sillyと名乗っていた最後のリリース。ハチマキ姿が80年代!

Silly




チェコスロバキアのMarie Rottrovaも「Divka, ktera spi jen tak(そんなに寝る女の子)」(1984年)という全く違うタイトルで歌っています。

Maria Rottrova




「Der Kommissar(秘密警察)」というニューウェイヴ的ラップ曲をご存知でしょうか? 1981年にオーストリアのFalcoがヨーロッパでヒットさせたのがオリジナル。歌詞で使われたスラングから警察を警戒するコカインについての歌とされていますが、同時に東ドイツのシュタージ(秘密警察)を隠喩しているという説もあります。でもこの時点での日本盤シングルの邦題は「デア・コミッサー」。

Falco




1982年には、英国のAfter The Fireの英語カヴァーは1982年に米国ビルボードチャートで5位にまで食い込み、彼らの最大のヒットとなります。こちらの日本盤シングルで邦題は「秘密警察」となりました。

After The Fire




上記二つほどヒットしなかったものの、それ以外にも「秘密警察」のカヴァーが量産されました。

フランス在住の米国人で俳優でもあるMatthew Gonderによる「Der Kommissar」(1982年)。

Matthew Gonder




ノイエ・ドイチェ・ヴェレ系の女性シンガー、Suzy Andrewsのデビューアルバムに収録された「Der Kommissar」(1982年)。

SuzyAndrews




「Self Control」で有名なLaura Braniganは、歌詞を書き換えて「Deep in the Dark」としてシングルおよびアルバムに収録(1981年)。

Laura Branigan




面白いのが、イタロディスコ系のPink Projectによる「Der Kommissar」とTrioの「Da Da Da」をマッシュアップした(早い!)「Der Da Da Da」(1982年)。

Pink Project




その後もカヴァーをする人たちはいますが、注目に値するのが、ハンガリーのLajos Turiによる「A Felugyelő (ハンガリー語で同じ意味)」(1983年)。「秘密警察」のカヴァーについて書かれた記事は結構ありますが、この曲についてはほとんど語られていません。共産主義国であったハンガリーで、コカインにせよ、秘密警察にせよ、そのような匂いがする歌がリリースできたのは、驚きです。ハンガリーのリベラルな側面が窺える貴重な楽曲とも言えましょう。

LajosTuri




『共産テクノ 東欧編』ではディスコポロだけのために11ページもさきました。ディスコポロとは、ポーランドで90年代初頭に一世を風靡した「田舎の結婚式やパーティーでかかるダサいディスコ」です。そんな偏見を持たれているディスコポロですが、調べてみるとその音楽性は意外と広いです。




本日紹介するのは、Mirosław Wanat。元々はInstytucjaというニューウェイヴ系バンドで活動し、ディスコポロ・グループ、 Midiとして活動するものの、プロデューサーと喧嘩して、Ex Midiとしてデビューしました(ポーランドではよくある話)。Ex Midiの「Symbole MiłoŚci (愛のシンボル)」なんかは、ディスコポロというよりもちょっと安っぽいUltravox風です。

Ex Midi




彼のテクノポップ的指向性は、ソロとしての「My Solidarni (私の連帯) 」からも読み取れます。これは、Kraftwerkの「The Model」のカヴァーです。

My Solidarni




しかし、その後WanatはDr. Albonistaとしてエロとディスコポロの融合という独自の路線を打ち出し、現在に至っています。彼の作品群のジャケットはほぼ18禁となっております。


東ドイツにオストロックと呼ばれるジャンルがあります。「オスト」は「東」で、まあドイツの共産ロックのようなもんです。東ドイツにはカセットテープで地下出版されたアンダーグラウンドなディー・アンデレン・バンズ(Die Anderen Bands)というジャンルがありますが、それとは対照的にオストロックは国営レーベルのAmiga Recordsからリリースされていました。オストロックのサウンドは西側の影響下、時代によって変遷しますが、東側の産業ロック的なものとも言えましょう。

オストロックの代表的なバンドはPuhdys、City、Silly、Karatあたりですが、大御所のPuhdysを紹介します。彼らがテクノポップに挑戦した11作目『Computer-Karriere (コンピュータ・キャリア)』(1983年)は、東ドイツの音楽評論家には酷評されましたが、 最も売れたアルバムです。Styxの「Mr. Roboto」あたりのノリなのかと思いますが、やっぱり産業ロック的なのは長年の手癖なのでしょう。

Puhdys




本家よりお勧めは、Puhdys の元ドラマーだったGunther Wosylusが発掘したLucieというエレクトロポップバンド。Amigaのオムニバス盤には収録されたものの、オリジナル・アルバムは東西ドイツ統一後となり、大きな話題ともならず消えてしまいました。

Lucie





2006年にポーランドの少女デュオ、Blog 27が来日しています。AlaとTolaの二人は2005年にポーランドでデビューし、ポストt.A.T.u.的な立ち位置で本国で人気となり、avexを通じて日本上陸となりました。楽曲的にはヒップホップ的ポップとなっています。そういう意味では、ポストt.A.T.u.というよりも同じロシアのМИН НЕТ(ミンニェット)に近いです。

こちらが、彼女たちのヒット曲「Uh La La La(ウーラララ~あなたが♡大好き)」。
LOL




Blog 27の陰で支えたのは、Tolaの父親、Jarosław Szlagowski。彼がドラマーとして在籍していたのが、ポーランドのニューウェイヴ系バンドとしても人気があったLady Pank(後にMaanam)です。ちなみにLady Pankは「Punk→Pank」という単純なスペルミスから。彼らの代表曲の一つでもある「Mniej Niż Zero (Minus Zero)」 はThe Policeなどからの影響も伺えるホワイトレゲエとなっています。
Lady Pank




1962年にデビューしたKati Kovacsは、ハンガリーのポップス界で最も有名な歌手と言っても過言でない存在。幅広いジャンルで活躍し、ハンガリーの老舗ロックバンド、Locomotiv GTとも3枚のアルバムを70年代に発表し、東ドイツでも人気がありました。

ソ連でも、アーラ・プガチョワ(Алла Пугачёва)は80年代にテクノ化をしていますが、彼女の場合も然り。日本にもテクノ歌謡というのがありましたが、1980年という早い時期に、10枚目となるテクノ歌謡的アルバム『Tiz (Ten)』を放っています。紹介する「Kerdes Onmagamhoz(A Question To Myself) 」は、Giorgio Moroderからの影響が顕著なかなり本格的なテクノポップとなっています。

Ten




74歳となる現在も健在で、現役として活動しておられます!

本日紹介するのは、チェコスロバキアの中でもスロバキア側のアーティスト、Miroslav Žbirka。通称、Miroです。現在のスロバキアの首都、ブラチスラヴァで1967年に結成されたModusのメンバーとして活動を始め、1980年にソロ・デビュー。

Miroの父親はスロバキア人ですが、母親は英国人で英語も堪能です。曲調からも英国の香りがします。中でも僕がお気に入りの「22 Dní(22 日)」(1984年)では、彼のポップ性がテクノ化した結果、 見事な化学反応を起こしています。早すぎるネオアコのようなイントロから、突然シンセドラムが乱入するエレクトロポップは意外に心地よろしいです。

Miro




Miroの元々はバックバンド的存在だったLimitから頭角を現したのは、Laco Lučenič。ソロとなり、「Byt Plný Snov(深い眠りに)」(1987年)は、さらにニューロマンティックス度が増し、スロバキア版Ultravoxと言っても過言でない出来となっています。

Laco


襟足部分の髪だけを長く伸ばしたマレットヘア。ちょっと恥ずかしい、でも80年代の郷愁を感じるヘアスタイルです。マレットとは魚のボラの意味で、見た目がボラに似ているからだという説明がありましたが、いまいちわかりません。でも、マレットってピッタリの語感だから、良しとしましょう。マレットさんのルーツは70年代のグラムロック期のDavid Bowieあたりかと思われます。ソ連にもいましたが、東欧にももちろんマレットさんはいます。

まず最初に紹介するのは、Inka (Bause)の「Ist Das Liebe(それ は愛?)」のPV。楽曲は大衆的なノイエ・ドイチェ・ ヴェレとシュラガーが融合したような感じ。Inkaがマレットヘアというわけではありません。PVでギターを弾いているInkaの隣のマレットさんです。 彼の名はUwe Hassbecker。Stern MeisenやSillyといったオストロック系バンドで活躍したギタリストです。ちなみにInkaの父、Arndt Bauseは「Popcorn」 のカヴァーとかもしている共産テクノ色が強いミュージシャンです。

Inka




もう一人、マレットの本命を紹介します。前述のStern Meisenのフロントマンを務めた後、1987年に集積回路 (Integrated Circuit)を意味するICという名義でエレクトロポップに路線転向したマレットさんです。彼の「Wunderland」。

Traumarchiv




なんだか、マレットヘアにしているとみんな一緒に見えます。二人ともNik Kershaw(英国のいい感じのマレットさん)に見えてしまう。

今日の特集はディズニーランド。現在もロシアを含めても東欧諸国にはディズニーランドはありません。冷戦時代、ポーランドのバンドによるディズニーランドがテーマとなったテクノポップを2曲紹介します。

まず最初は、Klinczというポズナンで結成されたニューウェイヴ系バンドによる「Disneyland」(1984年)。曲の出だしから「Walt Disney presents Disneyland」とハッタリをかまします。歌詞を紐解いてみると、単純にディズニーランドへの憧れを歌ったわけでないようです。「ディズニー、ディズニー、ディズニーランド、アヘン、アヘン、アヘン、大衆のための、大衆のための」と皮肉を込めた内容となっています。

 Gorączka


Disneyland [MP3 ダウンロード]



もう一つは、Papa Danceの「Nasz Disneyland(僕たちのディズニーランド)」(1988年)。こちらは歌詞にはディズニーランドという言葉は出てこず、寓話的な歌詞の象徴として使われています。Papa Danceは、Franek Kimonoの影武者的存在だった二人のメンバーによるプロデューサーチーム(Adam Patoh)の働きかけで、ワルシャワで結成されたアイドル的ニューウェイヴ系バンド。ソ連やポーランド系米国人(ポロニア)のために米国へのツアーも行い、海外進出も果たしたポーランドの人気グループです。

Nazs Disneyland


Nasz Disneyland - Our Disneyland (Papa Dance) [MP3 ダウンロード]



単純に「ディズニーランドが大好き!」という心情ではありませんが、当時の東欧の人たちにとって、ディズニーランドは西側カルチャーの象徴的存在だったのでしょう。

本日は、TOKYO FMの「TOKYO FM WORLD」で2曲目にかけた曲です。

TOKYO FM WORLD


「Hej Pane Diskžokej」とはチェコ語で「ヘイ!ミスター・ディスクジョッキー」。チェコの古参ロックバンド、Olympicでドラマーとして在籍したPetr Hejdukが1985年に結成したエレクトロポップ・バンド、Baletのデビュー・シングルです。男女3人が歌う、このキャッチーな東欧ディスコソングは、いきなりのヒット曲となりました。

Hej, Pane Diskžokej - Komplet


Hej, Pane Diskžokej [MP3 ダウンロード]



女性ボーカリストのIveta BartošovaがBaletに参加する前に、悲劇は起こりました。彼女はPetr & IvetaとしてPetr Sepešiとともに活動していました。1985年7月にSepešiは踏切事故で25歳という若さでなくなり、二人の「Knoflíky Lásky(愛 のボタン)」は Sepešiの遺作となりました。

Knoflíky Lásky


Knofliky Lasky [MP3 ダウンロード]



Baletを脱退したBartošovaはチェコを代表するソロ歌手としても成功しましたが、残念ながら2014年に他界しました。

最後に『共産テクノ 東欧編』の中身が一部パブリブのページで公開されています。

先週水曜日のTOKYO FMの「TOKYO FM WORLD」という番組で4曲紹介しましたが、その中の1曲を本日は紹介します。

番組のフィナーレを飾ったRockhausの「Disco In Der U-Bahn(地下鉄でディスコ)」です。なぜか地下鉄がダンスフロアにw Rockhausは1978 年に結成され、少なくとも初期においては、ニューウェイヴと位置付けられた人気バンドです。ドイツにはU-BahnとS-Bahnがあり、それぞれ地下鉄と都市電みたいなものです。この曲は、東ドイツで最初のヒップホップとされていますが、Blondieの「Rapture」やFalcoの「Der Kommissar」のようなニューウェイヴ的ラップと言ったほうがいいでしょう。サウンド的にはファンク魂を感じる、東ドイツとしては貴重なバンドです。休止期間もあり、一部のメンバーはPankowなどに移籍したり、他界しましたが、現在もライヴ活動をする長寿バンドとなっています。

ちょっとジャケがマレットヘア気味のアルバム『Bonbons und Schokolade(キャンディとチョコレイト)』
Bonbons Und Schokolade


Disco in der U-Bahn [MP3 ダウンロード]


明日、9月5日(水)は、TOKYO FMの「TOKYO FM WORLD」(20:00〜21:30)という番組におじゃまして、共産テクノの話をする予定です。radikoでも聴けるみたいです。


今回の『共産テクノ 東欧編』のために色々と調査をした結果、東欧でのテクノポップ元祖と考えられるのは、Fonográfというバンドによる「Tanzmaschine(ダンスマシーン)」という曲です。ちなみに以前紹介した「Popcorn」のカヴァーなどはカウントしていません。ハンガリーのバンドなのに東ドイツで1975年にAmigaからリリースされたシングルです。「テクノポップ」と言いましたが、クラウトロックに多少なりとも影響を受けた電子音を駆使したサイケデリックロック風と言った方が適切かもしれません。ちょっと言い訳多くてすいません。でも、『Autobahn』(1974年)の翌年と考えると先進的と言えましょう。

tanzmaschine


Tanzmaschine (instrumental) [MP3 ダウンロード]



ちなみこのバンド、テクノポップと呼べそうなのはこの曲のみで、気まぐれのようです。カップリングの「Es Tut Mir Leid(ごめんなさい)」は、カントリーロックです。1980年には『Country & Eastern』というタイトルのアルバムをリリースしています。

ロボットというのは、テクノポップにおける定番とも言えるコンセプトです。Daft Punkからテクノポップ的ルーツを感じてしまう理由の一つにも、ロボットがあります。ロボットという言葉はチェコスロバキアで生まれました。最初に使われたのは、1920 年の小説家Karel Čapekが発表した戯曲『R.U.R. (ロッサム万能ロボット商会)』です。

プラハ出身のAlexander Goldscheiderはロボットにこだわる男です。彼がOdessey名義で出したシングル『Jupiter』(1979年)は、東欧では比較的早いスペースディスコの影響も窺えるテクノポップとなっています。

Jupiter


Mluvi K Vam Robot [MP3 ダウンロード]



本名で1981年にリリースされたシングル『Mluvi K Vam Robot (ロボットはあなたに話す)』は、チェコスロバキアで最初に大半がボコーダーで歌われた曲とされます。インストルメンタル中心の彼の楽曲の中、この曲には風刺が効いた歌詞があります。作詞は1989年のビロード革命後、ハヴェル大統領のスポークスマ ン兼アドバイザーとなったMichael Žantovskyによるもので、「ロボットは支配と独占のためだけに地球上に天国を約束する」という歌詞はソ連をロボットに例えたとされています。

Mluvi K Vam Robot


Mluvi K Vam Robot [MP3 ダウンロード]



同年、彼はロンドンに移住をし、『Themes For A One Man Band Vol 1』(1983 年)、 『Themes For A One Man Band Vol 2 』(1984 年)を発表します。英国で成功したとは言い難いですが、「Love Theme for a Robot I」など、彼のロボットに対するこだわりは続いていました。

Themes For A One Man Band Vol.1




その後、彼はRomantic Robotという音楽ゲームソフト会社を設立し、やはりロボットにこだわり続けました。

『共産テクノ 東欧編』で扱った4ヶ国の中で最も開かれた共産主義国家は、ハンガリーでした。ニュートン・ファミリーという名前を聞いて、聞き覚えがあるそこそこの年配の人もいるのではないでしょうか? 本国ハンガリー以外で特に成功したのは日本と当時まだハンガリーとは国交がなかった韓国でした。 ニュートン・ファミリーについては課外活動の方が面白いのですが、メンバーのEva Csepregiはゴルバチョフを褒めまくる『O.K. Gorbacsov(Clap Your Hands For Michael Gorbatsjov)』を1988年に発表します。ちょっとThe Art Of Noiseっぽい。
O.K. Gorbacsov


O.K. Gorbacsov [MP3 ダウンロード]



彼女は、あのミュンヘンディスコのDschinghis Khanのメンバー、Leslie MandokiとEva And Leslieとしてコラボレーションを行いました。実は、Leslieは1975 年にミュンヘンに渡ったハンガリー人です。1988年のソウルオリンピック記念シングルとして『KOREA』(1987年)を発表しました。 韓国民謡の「アリラン」から始まるイタロディスコ的サウンドとなっています。
Korea


Korea (Hungarian Version) [feat. Leslie Mandoki] [Song for the Olympic Games '88 in Seoul] [MP3 ダウンロード]



この曲を知っている人、もしかすると、少女隊のファンもしくはかなりのアイドル通かもしれません。少女隊は「KOREA」のカヴァーを日本と韓国でリリースしています。「少女隊は韓国のテレビ放送で初めて日本の歌を歌った歌手であり、韓国でも人気があった」とのことです。
Korea


KOREA (日本語バージョン) [MP3 ダウンロード]


ハンガリーでPanta Rheiというバンドが1974年に結成されました。クラシック風味もあるプログレ系に分類できますが、ジャズロック的な要素も強く、シングルとしてリリースされた「Mandarin」という曲は、テクノ、ファンクそしてフュージョンが混ざったような初期のテクノポップ的な風合いが感じられます。こちらは、彼らの1979年にテレビでの演奏。



このPanta Rhei、1983年に突然、P.R. Computerと改名し、さらにテクノポップ化を推し進めます。デビュー作となった『P.R. Computer』は8万枚程度のヒット作となりました。

P.R.Computer



このアルバムは単なるリリースではなく、メンバーの一人、物理学者でもあるAndras Szalayが開発した「Muzix 81」をデモンストレーションするための広告塔でもありました。流石、理数系に強いハンガリーです。「Muzix 81」は、正確にはホームコンピュータ「Sinclair ZX81」に繋がれたシークエンサー、エフェクトプロセッサー、サンプラーを兼ね備えたシステムです。約300台が生産され、彼ら以外の楽曲制作にも使用された。Boney Mが使うという話もあったらしい。

版元ドットコムでも本の内容のアナウンスを昨日よりしていますが、本日より『共産テクノ 東欧編』がAmazonで予約できるようになりました。ちなみにカバーは東ドイツのホーネッカー書記長、ポーランドのmuselというシンセ、スロバキアのスロバキア放送ビルで構成されています。ハンガリーも入れたかったのですが、これだと思えるのが無く、断念しました。ハンガリーの皆さん、ごめんなさい。

共産テクノ 東欧編


今日のテーマはエル・ムージカ(El-Muzyka)。ポーランド語で「Electronic Music」つまり「電子音楽」を指します。このような名称が存在していたこと自体、知りませんでしたが、ポーランドでは一つのジャンルとなっていたことが窺えます。幸運にもポーランドに滞在中、二人のエル・ムージカの先駆者、Marek BilińskiとWładysław Komendarekに取材することができました。先ずは、Bilińskiを紹介します。ワルシャワ郊外にある彼のスタジオ兼自宅に伺いましたが、僕よりも少し年上の彼は、ハンサムで温厚な紳士!

BilińskiはBankというアートロック系のバンドのキーボード奏者として活動後、1982年エル・ムージカに専念すべく、ソロとして現在まで活躍をしています。彼は、70年代に冨田勲、Jean-Michel Jarre、Tangerine Dream... に出会い、電子音楽に魅了されていきます。電子音楽家として冷戦時代の共通の悩みは、いかにしてシンセサイザーなどの電子楽器を西側から手に入れるかです。東ドイツやポーランドには国産のシンセサイザーが80年代中盤あたりから出始めるのですが、まだ完成度が低かったようです。そこで活躍したのが、ポロニアと呼ばれる米国に移民したポーランド人です。Bilińskiもポロニアのコネクションにより西側製シンセサイザーを入手したのです。

こちらは、彼の作品の中ではニューウェイヴ色が強い「Ucieczka Z Tropiku (Escape from the Tropics)」 です。



こちらは、2012年に作られたドラムンベース仕様リミックス。



Amazonでもアナログ盤『Best Of The Best』が購入できます。

Best Of The Best

Best Of The Best [Analog] [LP Record]

『共産テクノ ソ連編』での一つの発見は、スポーツとテクノの親密な関係です。表現の自由が制限される中、80年代のエアロビクスやブレイクダンスのブームに便乗する形で、スポーツという大義名分のもと、電子音楽が作ろうとした人たちがいました。東欧でも、スポーツをテーマにしたテクノポップが存在します。そんな楽曲たちを僕は「スポーツテクノ」と呼ぶことにしました。

共産主婦はスポーツテクノでエアロビクス!

スポーツの祭典、オリンピックは、国家の威信をかけたイベントとして特に共産陣営では重要視されました。特に東ドイツはその先鋒として、1976年のモントリオールから1988年のソウル・オリンピックまで、メダル獲得数で米国を抜き、ソ連に続く第2位のポジションにいたのです。同時に東西ドイツ統一後、東ドイツの栄光の陰に潜む闇の部分として、国家によるドーピング・ システムに対する告発もなされましたが、最近になって、オリンピック選手強化のための電子音楽が存在したとの情報が明らかにされました。

映画スタジオ、DEFA (Deutsche Film- Aktiengesellschaft)でサウンドエディターとして働いていたMartin Zeichneteと言う東ドイツ人がいました。Kraftwerk、Cluster、Neu! などのクラウトロックのファン、そしてアマチュアのランナーでもあったZeichneteは、ウォークマンの前駆体となるStereobeltに着想を得て、クラウトロックをランナーのトレーニングに活用することを思いつきました。ある日、彼は政府に拉致され、オリンピック選手強化のための音楽を作るという極秘任務を言い渡されました。彼が製作したカセットテープは、約30年の年月を経て、Kosmischer Läufer として陽の目を見ることとなりました。現在まで『The Secret Cosmic Music Of The East German Olympic Program』としてVolume 1から3まで発表されています。

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The Secret Cosmic Music of the East German Olympic Program 1972-83, Vol. 1 [MP3 ダウンロード]



これらは虚構ではないかと疑うふしもありますが、こんな合法的ドーピングがあればなんて素晴らしいのでしょう。

Kosmischer Laufer


チェコスロバキアでの最大のヒット曲と言われるのが、Stanislav Hložek & Petr Kotvald のアイドル的男性デュオによる「Holky z naši školky(幼稚園か らの少女たち)」(1983 年) です。

Holky z naši školky



その編曲を手がけたのが、Jindřich Parmaです。1988 年に Parma は自らがリーダーとなる Hipodrom を結成し、デビュー・アルバム『Pražský Haus(プラハ・ハウス)』を1990年にリリース。これは、チェコスロバキアで最初のハウスとされています。

Pražsky Haus



Parma、女性ボーカリスト、振付師、そして3人のダンサーからなります。ハウスと言っても、シカゴハウスとかではなく、ちょっと下世話なユーロハウスと言うべきでしょうが… その後もParmaはヒップホップ、ハードコアテクノと先取りの精神で邁進していきます。

Parmaに は、2歳 年 上 の 兄、 Eduard Parma Jr.がいます。兄の Parma Jr. は、ニューウェイヴ全盛期の1982 年 に シ ン グ ル『King Kong In Hong Kong』を英国でリリースしています。これは僕のお気に入り! 中華風メロディーで始まるニューウェイヴ味もある隠れたテクノポップ名曲なんです。

King Kong In Hong Kong

2016年の『共産テクノ ソ連編』に続き、約2年をかけて、第二弾となる『共産テクノ 東欧編』を出版します。これを機に、「共産テクノ部」も再開し、書籍と連動する形で動画や音源を紹介していきます。

eastechno-chirashi


『ソ連編』でもテクノポップの ルーツとされる Gershon Kingsley(又は Hot Butter)の「Popcorn」のカヴァー曲を紹介しましたが、東欧でもカヴァーは発表されました。東ドイツの国営レーベルのAmigaよりHot Butter と同じ1972 年に、Orchester Volkmar Schmidtが早くも発表しています。意外と流行には敏感なんです。



チェコスロバキアも結構早い。Skupina Aleše Sigmunda(Aleše Sigmundのグループ)が1973年にカヴァーに挑戦しています。





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変わり種は、Olympic のベーシスト兼リードボーカルあった Jiří Kornのカヴァー。1973年に新たに歌詞が加えられ、「Jako Mandle Pražené(ロースト アーモンドとして)」として発表されています。オリジナルでは無いけど、この曲に合わせて踊っている変な動画がありました。



このJiří Kornという人、80年代になってエレクトロポップ化し、「Karel Nese Asi Čaj(カレルはお 茶を持ち歩く)」(1985年)は過剰なアレンジのエレクトロ歌謡となっています。



もう一つは、1989年の「Miss Moskva」。これは、ミス・モスクワの審査員になった奇妙な夢についての曲ですが、登場するミス・モスクワが多少なりともビッチっぽいのは気のせいだろうか?

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