四方宏明の“音楽世界旅行”〜Around the world

世界中のテクノポップ〜ニューウェイヴ系音楽を紹介。

2016年05月

ソ連では、フランス産のスペースディスコ・バンド、Spaceが人気を博し、その影響下で、スペースディスコ系バンドが少し遅れて80年代に現れました。ラトビアののゾディアック(Зодиак)と並び、ソ連でのスペースディスコの先駆者と言えるのが、リトアニアのArgoです。

彼らの1980年のデビュー作『Discophonia(ディスコフォニア)』は、手を抜いたのではないでしょうが、A1、A2…B1、B2…と全く素っ気のない曲名となっています。しかしながら、その内容は侮れません。フュージョンが変異したような独自のディスコグルーヴ感に溢れています。「A1」をDOMMUNEの「共産テクノ特集」でかけた時も宇川さんがえらく反応してくれました。

Discophonia




Argoは3枚のアルバムを残しましたが、3枚目の『Žemė L(ランドL)』(1986年)では、ディスコ路線から、電子民謡路線へとシフトしています。ジャケットには、リトアニアが生み出したシンセサイザー、「Vilnius-5」と思われる写真が写っています。

Žemė L




さらに一つ補足を。リトアニアの作家・詩人、ヴィンタス・クレヴェ(Vincas Krėvė)がリリースした2曲入りアルバム『Milžinkapis(古墳)』(1982年) でも、楽曲部分はArgoが演奏しており、実質、Argoのアルバムと数えてもいいでしょう。

Milžinkapis


テイスティス・マカチナス(Teisutis Makačinas)は、リトアニア音楽院(現在はリトアニア音楽演劇アカデミー)を卒業後、音楽理論と作曲を教える教授となりました。1972 年にリリースされた『T. Makačino Estradiniai Kūriniai (T. マカチナスの色々な作品)』のジャケットからは、いかにも教授という風貌が窺えます。

T. Makačino Estradiniai Kūriniai


クラッシック畑の彼が1982年に突然放った共産テクノ・アルバムが、『Disko Muzika(ディスコミュージック)』オープンリールをモチーフにしたジャケットも、メカニカルでかっこいい。多分、ラトビアのZodiac(Зодиак )にインスパイアされた(実際に彼のインタヴューでそのことにも触れています)スペースディスコ。

Disko Muzika




彼は現在77歳でご健在のようで、2015年の取材記事で『Disko Muzika』への再評価に対し「若者たちが私の音楽に興味を持ってくれて、嬉しい」と答えています。

前回紹介したDzPこと、ゼルテニエ・パストニエキ(Dzeltenie Pastnieki)には、ロベルツ・ゴブジンシュ(Roberts Gobziņš)というラトビア、そしてソ連初のラッパーがいました。彼はソロに転向後、西ドイツのWestBam にあやかり、EastBam名義で1990 年に『Aka Aka』をWestBam のLow Spiritからリリースしました。

Aka Aka




EastBamは、ソ連におけるDJ ならぬTJ(テープ・ジョッキーを意味する)の第一人者でもありました。
最近、カセットテープが見直されているようですが(梅田ロフトで『大ラジカセ展』開催中)、TJ の機材はオープンリールのテープレコーダー(Ross Markが定番)が使われ、なんとスクラッチなどもできました。こちらで、ラトビアでのTJについて解説がされています。



さすが地下出版としてのテープ文化が花開いたソ連ですね!

今回、『共産テクノ』を執筆するにあたって、色々な人たちに情報を提供していただきました。その中でもヤロスラフ・ゴドィナ(Ярослав Годына)さんというウクライナの雑誌編集者の方には、アーティストの発掘に多大な助言をしてもらいました。今日は、彼に教えてもらった共産テクノの真打とも言えるバンドを紹介します。

ソ連には国営レーベル「メロディヤ」から作品を発表したメジャーな人たちとテープアルバムを中心に地下出版を続けたアンダーグラウンドな人たちがいます。アンダーグラウンド・シーンにおいての共産テクノの開拓者とも言えるのが、ラトビアのゼルテニエ・パストニエキ(Dzeltenie Pastnieki)。長くて、覚えにくいので、略称、DzPで呼びます。

彼らのデビュー作『Bolderājas dzelzceļš(ボルデラーヤス鉄道)』は、テープアルバムとして1981年に地下出版されました。2作目は『Man ļoti patīk jaunais vilnis(僕はニューウェイヴが大好き)』(1982 年)では、タイトルからもニューウェイヴへの憧憬が伝わります。僕の一押しは、4作目のアルバム『Vienmēr klusi(常に静かに)』(1984年)収録の物憂げさに溢れる「Milžu cīņa(巨人は戦う)」。TBSラジオでも流した曲です。

Vienmēr klusi




DzPのリーダーのイングス・バウシュケニエクス(Ingus Baušķenieks)の奥さんとなるのが、エディーテ・バウシュケニエセ(Edīte Baušķeniece)。彼女はDzPの曲「Mana kafejnīca ir salauzta(私のカフェはやっていない)」をカヴァーして、PVまで作っています。こちらも80年代的アンニュイさに溢れています。

Klusais okeāns


現在のベラルーシは、僕が世界地理を勉強していた頃はソ連内の白ロシアとして習いました。ヴェラスィ(Верасы)は、白ロシアを代表する、ヴィア(ВИА)と呼ばれる歌謡楽団。彼らは80年代初期にディスコ歌謡的な方向に行きましたが、1987年に発表された『Музыка для всех(すべてのための音楽)』が変な作品なのです。アコギと写ったジャケを見る限り、到底共産テクノには見えません。15曲入りのこのアルバム、9曲まではごく普通のヴィア的な内容。しかし、残りが突然変異を起こしています。まるで反乱のようです。

Музыка для всех


11曲目の「Полет(飛行)」は、テクノポップと言っても遜色がありません。



続く、「Аэробика(エアロビクス)」では、共産テクノのサブジャンルとも呼べるスポーツテクノとなっています。



こういう意外かつ健気な努力を見つけると、嬉しいものです。

ソ連ではスペースディスコ系バンドが多いですが、ウクライナにもいます。彼らの名は、ディスプレイ(Дисплей)。スペースディスコとロックが折衷のようなサウンドで、バンド形態でしたが、最後は夫婦にのみが残りました。

彼らの「Робот - суперчеловек(ロボット=スーパーマン)」をソ連初のテクノポップと呼ぶ人もいます。デビュー・アルバム『Волна перемен(変化の波)』に収録されているのが、これです。コンセプトもKraftwerk然としたロボ声もテクノポップと呼んでもいいでしょう。しかし、この作品は1985年なので、ソ連初というのはちょっと言い過ぎかなと。しかし、よく調べてみると、この曲は1982年にAPCという名前だった頃、演奏されていたのです(VKで聴けます)。ただ、この時点のアレンジは、テクノポップというよりもディスコポップ。

Волна перемен




2枚目の『Дисплей(ディスプレイ)』からの「Динамо(ディナモ)」は、ウクライナのサッカーチーム、FCディナモ・キエフのアンセムソングです。それほどテクノではないですが、ちょっとレゲエっぽいリズム。

Дисплей




サッカーもスポーツ、そしてエアロビクスもソ連では重要な体力増強のためのスポーツでした。ディスプレイはエアロビクスのためのスポーツテクノも手がけていますが、これはまた今度、特集します。

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