四方宏明の“音楽世界旅行”〜Around the world

世界中のテクノポップ〜ニューウェイヴ系音楽を紹介。

カテゴリ:共産テクノ > チェコスロバキア社会主義共和国

どこの国もニューウェイヴ歌姫のようなポジションの人がいます。ソ連の場合、自称火星人ことジャンナ・アグザラワ (Жанна Агузарова)、チェコスロバキアで言えば、Jana Kratochvílováです。日本の戸川純的ポジションと言った方がわかりやすいかもしれません。

Jana


デビューシングルは結構早い1977年の『Song』。バックビートが効いた前衛的な歌謡曲といった感じ。



1980年のシングル『Dlouhá Bílá Žhoucí Kometa(長く白い萌える彗星)』は、モーグサウンド的キラキラディスコ歌謡。



翌年にはThe Policeのカヴァー『Tvou Spásou Já Chci Být(高校教師)』をシングル・リリースしています。



Janaは1983年にはチェコスロバキアに帰国できなくなり、英国に残り、Jana Pope、Z Goddess名義でリリースをしましたが、残念ながらそれほど注目されることはありませんでした。最近もチェコスロバキアのメディアにも登場していますが、エキセントリック街道まっしぐらという感じです。


1938年にプラハに生まれたPetr Skoumalは、元々子供向けを中心としたサントラを主に手がけていた音楽家ですが、80年代終盤、つまり50代でテクノポップに目覚めました。ソロ名義で『…Se Nezblázni(発狂して ……)』(1989年)と『Poločas Rozpadu(ハーフ・ライフ)』(1990年)を立て続けに発表します。この2枚は、彼が亡くなる2014年の前年に2枚組CDとして再発されてました。

Petr Skoumal


しかし、本日紹介したいのは、ポーランドの民主化以降となる1994年の作品「I Am A Japanese Synthersizer」です。56歳となったSkoumalは、突如動画のみでこの曲を発表します。当時チェコではそこそこ放映されていたらしいです。今回も”間違った感”に溢れています。テクノポップ的には間違えていないのですが、間違った日本(笑)! Skoumalも歌舞伎メークで登場。後半なぜか、イチャイチャし始めるサムライとゲイシャ。ご覧ください!

チェコスロバキアにノヴァーヴルナ(=ニューウェイヴ)系バンドにOK Bandというのがいます。OK Bandのシンセサイザー奏者、Vladimír Kočandrleが別ユニットしてやっていたのが、Mýdlo(意味は「石鹸」)。こいつらが変なんです。脱力系のノイエ・ドイチェ・ヴェレのような作風で攻めています。

脱力系のノイエ・ドイチェ・ヴェレの代表格と言えば、Trioですが、デビュー・シングル『Da Da Da, Nechci Tě Vic(ダ・ダ・ダ、あなたを望んではいない)』(1982年)では、Trioのカヴァーもしています。

Da Da Da


カップリングの「Po Nočni(夜の後)」の動画では、子供バンドをバックにボーカルのおっさんはベッドで寝ながら歌っています。ずっと寝ています。



続くシングルは『Dieta(ダイエット)』(1984年)、同じおっさんが出ていた、レストランでただ食事をしています。適当に連れてきたような、踊るキッチンのおばさんたちがかわいらしい。

Dieta



現在も、チェコは東欧のハリウッドと呼ばれるほど映画産業が盛んな国です。チェコスロバキアであった1960年代にはチェコ・ヌーヴェルヴァーグが興り、人形劇をもとにしたアニメの分野でも質の高い作品を輩出してきました。そんなチェコスロバキアですから、サントラ分野においても注目すべきアーティストがいます。彼の名は、Karel Svoboda。

1980 年にスウェーデンの作家、Selma Lagerlöf の小説がベースとなった『ニルスのふしぎな旅 (Nils Holgersson)』 というテレビアニメが NHK でも放映されていました。日本ではタケカワユキヒデとチト河内が音楽を担当しましたが、1983年にヨーロッパで放映された際には、Karel Svobodaがサントラを手がけました。



彼はKarel Gott、Helena Vondráčková、Petra Janů、Marcela Březinová (OK Band)、Anna Rusticanoなどのチェコスロバキアの歌手に楽曲提供をしましたが、同時に数多くのサントラも手がけています。その中でも注目すべきは、1983年から放映されたチェコスロバキアの近未来テレビドラマ「Návštěvníci (訪問者)」です。SFものだけあって、テクノポップ的世界観にあふれています。このドラマはフランス、西ドイツなどの西側でも放映されました。

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最後に宣伝です!
10月11日(木)19時〜21時、『ヒップホップ東欧』の著者、平井ナタリア恵美さんと共にDOMMUNEに登場します。

昨日は、安井麻人さんが運営するフォノテーク(神戸 元町)で『共産テクノ 東欧編』の出版記念イベントをさせていただきました。

ウォークマンの前に発明されたステレオベルトの科学的解説
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ポーランドのスター、Franek Kimono
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イベント用に「スポーツテクノ」「共産テクノクラート」「共産エロス」「共産クラブミュージック」「共産カヴァー」の5つのテーマで約90分のトークを交えたPV紹介をしました。まだ紹介していない、イベントでも反応がよかったものを復習も兼ねて、ブログでも書いてみます。

「共産エロスって何だ?」と気になった方もおられるかと思いますので、ちょっと解説します。共産エロスとは「ペレストロイカ、ベルリンの壁崩壊…の中、徐々にエロスのタガが外れてくる社会的現象」を指します。

まずは、チェコスロバキアの少女ハイジ(Heidi Janků)です。Heidi & Supernovaとして二十歳でデビューした「Ja Jsem Ja(私は私)」(1982年)は、エレクトロポップ仕様となっています。アルバム『Heidi』のジャケもやんわりセクシーですが、あどけなさが残ります。

Heidi




チェコスロバキアとしての最後の年、10年後となる1992年、ハイジはセクシー路線にまっしぐらとなります。タイトルからしても確信犯的な「Skandal(スキャンダル)」のPVを放ちます。出だしから自分のヌードポスターを貼っています。動画では憧れの裸エプロンです。でも料理なんかしていません。洗車です! でも、洗車の仕方がイマイチ雑なのが気になります。

Heidi




ハイジは現在も歌手、そして芸能界で活躍しています。だてに裸エプロンをしていたわけではありません!2012年には「Intim Night(親密な夜)」という番組の美魔女系司会者をやっていました。人間、時には振り切ることも大事なんですね。


本日紹介するのは、チェコスロバキアの中でもスロバキア側のアーティスト、Miroslav Žbirka。通称、Miroです。現在のスロバキアの首都、ブラチスラヴァで1967年に結成されたModusのメンバーとして活動を始め、1980年にソロ・デビュー。

Miroの父親はスロバキア人ですが、母親は英国人で英語も堪能です。曲調からも英国の香りがします。中でも僕がお気に入りの「22 Dní(22 日)」(1984年)では、彼のポップ性がテクノ化した結果、 見事な化学反応を起こしています。早すぎるネオアコのようなイントロから、突然シンセドラムが乱入するエレクトロポップは意外に心地よろしいです。

Miro




Miroの元々はバックバンド的存在だったLimitから頭角を現したのは、Laco Lučenič。ソロとなり、「Byt Plný Snov(深い眠りに)」(1987年)は、さらにニューロマンティックス度が増し、スロバキア版Ultravoxと言っても過言でない出来となっています。

Laco


本日は、TOKYO FMの「TOKYO FM WORLD」で2曲目にかけた曲です。

TOKYO FM WORLD


「Hej Pane Diskžokej」とはチェコ語で「ヘイ!ミスター・ディスクジョッキー」。チェコの古参ロックバンド、Olympicでドラマーとして在籍したPetr Hejdukが1985年に結成したエレクトロポップ・バンド、Baletのデビュー・シングルです。男女3人が歌う、このキャッチーな東欧ディスコソングは、いきなりのヒット曲となりました。

Hej, Pane Diskžokej - Komplet


Hej, Pane Diskžokej [MP3 ダウンロード]



女性ボーカリストのIveta BartošovaがBaletに参加する前に、悲劇は起こりました。彼女はPetr & IvetaとしてPetr Sepešiとともに活動していました。1985年7月にSepešiは踏切事故で25歳という若さでなくなり、二人の「Knoflíky Lásky(愛 のボタン)」は Sepešiの遺作となりました。

Knoflíky Lásky


Knofliky Lasky [MP3 ダウンロード]



Baletを脱退したBartošovaはチェコを代表するソロ歌手としても成功しましたが、残念ながら2014年に他界しました。

最後に『共産テクノ 東欧編』の中身が一部パブリブのページで公開されています。

ロボットというのは、テクノポップにおける定番とも言えるコンセプトです。Daft Punkからテクノポップ的ルーツを感じてしまう理由の一つにも、ロボットがあります。ロボットという言葉はチェコスロバキアで生まれました。最初に使われたのは、1920 年の小説家Karel Čapekが発表した戯曲『R.U.R. (ロッサム万能ロボット商会)』です。

プラハ出身のAlexander Goldscheiderはロボットにこだわる男です。彼がOdessey名義で出したシングル『Jupiter』(1979年)は、東欧では比較的早いスペースディスコの影響も窺えるテクノポップとなっています。

Jupiter


Mluvi K Vam Robot [MP3 ダウンロード]



本名で1981年にリリースされたシングル『Mluvi K Vam Robot (ロボットはあなたに話す)』は、チェコスロバキアで最初に大半がボコーダーで歌われた曲とされます。インストルメンタル中心の彼の楽曲の中、この曲には風刺が効いた歌詞があります。作詞は1989年のビロード革命後、ハヴェル大統領のスポークスマ ン兼アドバイザーとなったMichael Žantovskyによるもので、「ロボットは支配と独占のためだけに地球上に天国を約束する」という歌詞はソ連をロボットに例えたとされています。

Mluvi K Vam Robot


Mluvi K Vam Robot [MP3 ダウンロード]



同年、彼はロンドンに移住をし、『Themes For A One Man Band Vol 1』(1983 年)、 『Themes For A One Man Band Vol 2 』(1984 年)を発表します。英国で成功したとは言い難いですが、「Love Theme for a Robot I」など、彼のロボットに対するこだわりは続いていました。

Themes For A One Man Band Vol.1




その後、彼はRomantic Robotという音楽ゲームソフト会社を設立し、やはりロボットにこだわり続けました。

チェコスロバキアでの最大のヒット曲と言われるのが、Stanislav Hložek & Petr Kotvald のアイドル的男性デュオによる「Holky z naši školky(幼稚園か らの少女たち)」(1983 年) です。

Holky z naši školky



その編曲を手がけたのが、Jindřich Parmaです。1988 年に Parma は自らがリーダーとなる Hipodrom を結成し、デビュー・アルバム『Pražský Haus(プラハ・ハウス)』を1990年にリリース。これは、チェコスロバキアで最初のハウスとされています。

Pražsky Haus



Parma、女性ボーカリスト、振付師、そして3人のダンサーからなります。ハウスと言っても、シカゴハウスとかではなく、ちょっと下世話なユーロハウスと言うべきでしょうが… その後もParmaはヒップホップ、ハードコアテクノと先取りの精神で邁進していきます。

Parmaに は、2歳 年 上 の 兄、 Eduard Parma Jr.がいます。兄の Parma Jr. は、ニューウェイヴ全盛期の1982 年 に シ ン グ ル『King Kong In Hong Kong』を英国でリリースしています。これは僕のお気に入り! 中華風メロディーで始まるニューウェイヴ味もある隠れたテクノポップ名曲なんです。

King Kong In Hong Kong

2016年の『共産テクノ ソ連編』に続き、約2年をかけて、第二弾となる『共産テクノ 東欧編』を出版します。これを機に、「共産テクノ部」も再開し、書籍と連動する形で動画や音源を紹介していきます。

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『ソ連編』でもテクノポップの ルーツとされる Gershon Kingsley(又は Hot Butter)の「Popcorn」のカヴァー曲を紹介しましたが、東欧でもカヴァーは発表されました。東ドイツの国営レーベルのAmigaよりHot Butter と同じ1972 年に、Orchester Volkmar Schmidtが早くも発表しています。意外と流行には敏感なんです。



チェコスロバキアも結構早い。Skupina Aleše Sigmunda(Aleše Sigmundのグループ)が1973年にカヴァーに挑戦しています。





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変わり種は、Olympic のベーシスト兼リードボーカルあった Jiří Kornのカヴァー。1973年に新たに歌詞が加えられ、「Jako Mandle Pražené(ロースト アーモンドとして)」として発表されています。オリジナルでは無いけど、この曲に合わせて踊っている変な動画がありました。



このJiří Kornという人、80年代になってエレクトロポップ化し、「Karel Nese Asi Čaj(カレルはお 茶を持ち歩く)」(1985年)は過剰なアレンジのエレクトロ歌謡となっています。



もう一つは、1989年の「Miss Moskva」。これは、ミス・モスクワの審査員になった奇妙な夢についての曲ですが、登場するミス・モスクワが多少なりともビッチっぽいのは気のせいだろうか?

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