四方宏明の“音楽世界旅行”〜Around the world

世界中のテクノポップ〜ニューウェイヴ系音楽を紹介。

Marek i Vacek(Marek & Vacek)はMarek TomaszewskiとWacław Kisielewskiの二人のピアニストからなるデュオであります。1966年には「Tandem」というタイトルの 27分近くに及ぶ先駆的とも言えるミュージックビデオを発表していますが、こちらはそこからのベートベンの「アレグレット」の動画です。



80年代に彼らは、独自の解釈でクラシックのテクノポップ化を測ります。その代表曲とも言えるのが、「Melodia dla Zuzi(ズジのためのメロディ)」。二人とも真面目にやっていますが、どこかユーモラス。

Marek i Vacek




残念なことに1986年にKisielewskiは交通事故で他界し、デュオは活動中止となってしまいました。

本日は、『共産テクノ 東欧編』ではなく『共産テクノ ソ連編』のお話をします。




ロシア語のFacebookとも言える通称、VK(ヴェーカー)と言われるフ コンタクテ(ВКонтакте)を共産テクノの情報収集のために数年使っています。1ヶ月ほど前、オリガ・ヴァスカニヤーン(Ольга Восконьян)から友達申請がありました。最初は誰か分からなかったのですが、写真を見ると、見覚えがあります。ソ連版Depeche Modeとロシアン・ウィスパーの記事でも書いたアンニュイな女子(当時)です。


もう一度、彼女の名曲「Автомобили (自動車)」を貼っておきます。



すっかり忘れていたのですが、僕はVKで彼女に関するグループ(コミュニティみたいなファンの集まり)に加入していて、彼女は「私のファンなら歓迎よ」という感じで、そのグループに入っている人に申請をしていたのです。彼女に「君のことを書籍でも本ブログでも書いたよ!」と情報を送ってみると、とても喜んでくれました。

オリガは現在も活動中! 現在もお綺麗です。こちらは新しいバージョンの「自動車」のライヴです。



色々やり取りをしていると、ちょうど彼女はアルバム『Автомобили (Expanded Edition)』をリリースしたとのこと。VKでMaschina Recordsのマクシム・コンドラシオフという人にコンタクトし、PayPalで€24(送料・手数料込み)を払って、手に入れたのがこれです!

automobile


当時のオリジナル曲が5曲にリミックス曲、彼女が活動したБиоの曲を加えて、全部で18曲。オリガ・ヴァスカニヤーンのファンにとって待望かつマスト・アイテムです(笑)。

ちょっと曲が少ないですが、Bandcampでもデジタルアルバムが買えます。「ディスコ狂のソヴィエト女王(The soviet queen of disco-frenzy)」と紹介されています。

CD共にポストカードも送られてきました。『ソ連編』でも書いたオーガニック・レディこと、アルガニーチスカヤ・リェヂ(Органическая Леди)と90年代に活動したらしいディー・ブロンクスとナタリ(Ди БРОНКС и НАТАЛИ)の二組です。両者とも強力なルックスです。また、ブログでも書いてみます。

organiclady

共産テクノ認定をしたポーランドの作品の中で、飛び抜けてクオリティーが高いのがARP-Lifeによる『Jumbo Jet』です。リリースは1977年と、全く出遅れていません。ポーランドの国営ラジオとテレビのスタジオ機材をフルに活用するためのプロジェクトだが、3人のメンバーのうちの一人は、Franek Kimonoの黒幕でもあったAndrzej Korzyński。

ジャケットも秀逸! はい、これは現地で買い付けしました。ファンクをベースにMoogなどの電子機材を駆使しており、ちょっとモンド的イージーリスニング感もあります。スペースファンクと呼んでいる人もいます。

arp-life




続編となる『Z Bezpieczną SzybkoŚcią(安全速度)』は1978年にカセットテープのみで発売されました。こちらは2015年の再発盤ですが、「安全速度」だから、 飛行機の代わりにカタツムリというシュールなジャケットになっています。

arp-life2

CCM(コンテンポラリー・クリスチャン・ミュージック)というジャンルがあります。ナッシュビルやテネシーを発祥とし、米国の保守層を担うキリスト教徒が主体となり、多くはキリスト教信仰をテーマに歌うポピュラー音楽です。どこからどこまでがCCMかというのは意見が分かれるところですが、クリスチャン・メタル、クリスチャン・パンク、ホーリー・ヒップホップなどと言ったジャンルも存在します。日本では、久保田早紀として「異邦人」で一斉を風靡した久米小百合はCCMに入れてもいいでしょう。

現在でもアメリカを中心にJoy Electric、Brave New World、Sovietなどのクリスチャン・シンセポップ(エレクトロポップというよりもシンセポップと呼ばれる傾向がある)系バンドがいますが、80年代の東ドイツにもクリスチャン・シンセポップ・デュオがいました。「Church in a new light - Church in the new sound」をモットーに活動したクリスチャン共産テクノが、Serviです。彼らは80年代に2枚のアルバム『Ruckkehr Aus Ithaka(イサカからの復帰)』『Pas De Deux In H』をAmigaからリリースしているが、1枚目に収録された「Laistrygonen(ライストリューゴーン族)」は後のエレクトロニカサウンドを予見させる独創性を感じさせます。

Servi




東ドイツの唯一の国営レコード会社、Amigaは「Kleeblatt」というシリーズをリリースしていました。シリーズ14枚目となる『Kleeblatt No.14 - Electronic-Pop』(1985年)は、文字通り国産のエレクトロポップをテーマに、4組のアーティストを収録しています。全ての楽曲はインストルメンタルですが、歌詞の検閲を受けないでもリリースできるというメリットもあったと思われます。

Electronic-pop


『共産テクノ 東欧編』でも、このオムニバス盤に参加したKeyのFrank Fehseにインタビューする機会に恵まれました。Fehse曰く、「当時買った 2 台のシンセサイザーで家が 1 軒買えた……」とのこと。彼らの唯一のアルバム『Key』(1989年)では、オリジナル曲に混じって、Jan Hammerの「Crockett's Theme」と Harold Faltermeyerの「Axel F」のカヴァーを収録しています。前者は、「Miami Vice」の挿入歌、後者は映画 『Beverly Hills Cop』のテーマ曲です。近年のシンセウェイヴまたはレトロウェイヴにも影響を与えた80年代を代表するエレクトロポップ・インストルメンタルです。

Key




「Crockett's Theme」は、エレクトロクラッシュ全盛期にカナダのFPUもカヴァーしており、僕のお気に入りの一つです。

FPU



1938年にプラハに生まれたPetr Skoumalは、元々子供向けを中心としたサントラを主に手がけていた音楽家ですが、80年代終盤、つまり50代でテクノポップに目覚めました。ソロ名義で『…Se Nezblázni(発狂して ……)』(1989年)と『Poločas Rozpadu(ハーフ・ライフ)』(1990年)を立て続けに発表します。この2枚は、彼が亡くなる2014年の前年に2枚組CDとして再発されてました。

Petr Skoumal


しかし、本日紹介したいのは、ポーランドの民主化以降となる1994年の作品「I Am A Japanese Synthersizer」です。56歳となったSkoumalは、突如動画のみでこの曲を発表します。当時チェコではそこそこ放映されていたらしいです。今回も”間違った感”に溢れています。テクノポップ的には間違えていないのですが、間違った日本(笑)! Skoumalも歌舞伎メークで登場。後半なぜか、イチャイチャし始めるサムライとゲイシャ。ご覧ください!

GM49は、ハンガリーで最初にスカ・レゲエ をやったバンドとされています。すでに知名度があったコメディアンのMiklós Gallaが中心となってブダペストで1981年に結成されました。デビューシングルの「Kötöde(編み物)」(1982年)は、当時のツートーン、特にMadnessの流れを組むスカとなっています。



1984年にGalla以外のメンバーは総替えとなり、ロンドンにシンセサイザーを買いに行って、テクノポップ・アルバム『Digitális Majális(デジタル・ピクニック)』を完成させます。その中の問題の1曲が「Kozmikus Alom(コズミック・ドリーム)」です。推測するに本人たちはテクノポップをやろうとしたのですが、余計な個性を強調することで、間違った感じのテクノポップに仕上がっています。メンバーのコスプレとチグハグ感がさらに輪をかけています。

GM49




脱退した元メンバー、Attila Borzaは取材で「大まかに言って、失敗作だった」との言葉を残していますが、その心意気には敬意を表します。

こちらでテクノポップ度が高いディスコポロ、名付けて「テクノディスコポロ」を紹介しましたが、今回は正統派のディスコポロを紹介します。正統派になればなるほど、下世話でダサさが強調されるのがディスコポロの特徴です。

DOMMUNEで『ヒップホップ東欧』のナタリアさんとディスコポロ対決をしたのですが、ナタリアさんはいきなりの豪速球! 彼女がセレクトしたのは、ディスコポロのアンセムソングとも言えるMarlena Drozdowska & Marek Kondratによる「Mydełko Fa(ソープFa)」(1991年)。「Fa」はヘンケル社の石鹸ブランド名です。この曲をプロデュースした黒幕とも言えるのが、Franek KimonoのメンバーでもあるAndrzej Korzyński。彼の本流というよりも、かなり狙って作ったようです。ディスコポロのリリースのほとんどはカセットテープですが、複数のジャケットが存在します。どれも大胆というか露出度が高いのですが、比較的穏健なものを載せておきます。ちなみにお姉さんと歌い手の間には何の関係もありません。ジャケットに負けず、動画もB級エロ感に溢れています。

Mydełko Fa




対する僕のセレクトは、Toy Boysの「Jelcyn, Jelcyn(エリツィン、エリツィン)」(1993年)。別名「エリツィン・ダンス」。ロシア民謡 meets ディスコポロであります! 「エリツィ ン、エリツィン、あなたはヒーロー」と歌うエリツィン賛歌。ハンガリーには「OK ゴルバチョフ」という曲もありましたが、結果的に東欧をソ連から解放してくれたゴルバチョフとエリツィンは人気者のようです。

Jelcyn Dance




チェコスロバキアにノヴァーヴルナ(=ニューウェイヴ)系バンドにOK Bandというのがいます。OK Bandのシンセサイザー奏者、Vladimír Kočandrleが別ユニットしてやっていたのが、Mýdlo(意味は「石鹸」)。こいつらが変なんです。脱力系のノイエ・ドイチェ・ヴェレのような作風で攻めています。

脱力系のノイエ・ドイチェ・ヴェレの代表格と言えば、Trioですが、デビュー・シングル『Da Da Da, Nechci Tě Vic(ダ・ダ・ダ、あなたを望んではいない)』(1982年)では、Trioのカヴァーもしています。

Da Da Da


カップリングの「Po Nočni(夜の後)」の動画では、子供バンドをバックにボーカルのおっさんはベッドで寝ながら歌っています。ずっと寝ています。



続くシングルは『Dieta(ダイエット)』(1984年)、同じおっさんが出ていた、レストランでただ食事をしています。適当に連れてきたような、踊るキッチンのおばさんたちがかわいらしい。

Dieta



DOMMUNE「共産テクノ 東欧編」実写版を観ていた方々、ありがとうございます。しばらくDOMMUNEでも紹介したアーティストを中心に書いていきます。

英国生まれのRobert Palmerはスーツが似合う男性シンガーの象徴的存在です。2003年に54歳という若さでパリで心臓発作によって亡くなってしまいましたが、80年代にDuran DuranやChicのメンバーとのThe Power Station、ソロとして隆盛を極めました。当時会社員だった僕は、仲間内で「歌うサラリーマン」と勝手に呼んでいました。70年代のソウルフルでファンキーな時代も、味があります。1975年の『Pressure Drop』は捻りが効いたセクシージャケ。

Pressure Drop


そんな彼だからこそ、無表情なモデル系美女を従えて、伊達なスーツで歌う「Addicted To Love(恋におぼれて)」のPVは様になっていました。



東ドイツのRobert Palmerと呼んでいるのが、Arnulf Wenning。ニューウェイヴ・レゲエ系のバンド、Reggae Playのボーカリスト・フルート奏者として活動し、1987年にデビュー・アルバム『Arnulf Wenning』をリリースしました。まだベルリンの壁が崩壊する前ですが、攻めているセクシージャケです。

Arnulf Wenning


PVでも攻めています。「Addicted To Love」を意識したような「Scharf drauf (Stop! Rock)」は、さらに裸体主義へと。一つ注文するとすれば、ちゃんとスーツを着て欲しかった。

現在も、チェコは東欧のハリウッドと呼ばれるほど映画産業が盛んな国です。チェコスロバキアであった1960年代にはチェコ・ヌーヴェルヴァーグが興り、人形劇をもとにしたアニメの分野でも質の高い作品を輩出してきました。そんなチェコスロバキアですから、サントラ分野においても注目すべきアーティストがいます。彼の名は、Karel Svoboda。

1980 年にスウェーデンの作家、Selma Lagerlöf の小説がベースとなった『ニルスのふしぎな旅 (Nils Holgersson)』 というテレビアニメが NHK でも放映されていました。日本ではタケカワユキヒデとチト河内が音楽を担当しましたが、1983年にヨーロッパで放映された際には、Karel Svobodaがサントラを手がけました。



彼はKarel Gott、Helena Vondráčková、Petra Janů、Marcela Březinová (OK Band)、Anna Rusticanoなどのチェコスロバキアの歌手に楽曲提供をしましたが、同時に数多くのサントラも手がけています。その中でも注目すべきは、1983年から放映されたチェコスロバキアの近未来テレビドラマ「Návštěvníci (訪問者)」です。SFものだけあって、テクノポップ的世界観にあふれています。このドラマはフランス、西ドイツなどの西側でも放映されました。

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最後に宣伝です!
10月11日(木)19時〜21時、『ヒップホップ東欧』の著者、平井ナタリア恵美さんと共にDOMMUNEに登場します。

昨日は、安井麻人さんが運営するフォノテーク(神戸 元町)で『共産テクノ 東欧編』の出版記念イベントをさせていただきました。

ウォークマンの前に発明されたステレオベルトの科学的解説
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ポーランドのスター、Franek Kimono
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イベント用に「スポーツテクノ」「共産テクノクラート」「共産エロス」「共産クラブミュージック」「共産カヴァー」の5つのテーマで約90分のトークを交えたPV紹介をしました。まだ紹介していない、イベントでも反応がよかったものを復習も兼ねて、ブログでも書いてみます。

「共産エロスって何だ?」と気になった方もおられるかと思いますので、ちょっと解説します。共産エロスとは「ペレストロイカ、ベルリンの壁崩壊…の中、徐々にエロスのタガが外れてくる社会的現象」を指します。

まずは、チェコスロバキアの少女ハイジ(Heidi Janků)です。Heidi & Supernovaとして二十歳でデビューした「Ja Jsem Ja(私は私)」(1982年)は、エレクトロポップ仕様となっています。アルバム『Heidi』のジャケもやんわりセクシーですが、あどけなさが残ります。

Heidi




チェコスロバキアとしての最後の年、10年後となる1992年、ハイジはセクシー路線にまっしぐらとなります。タイトルからしても確信犯的な「Skandal(スキャンダル)」のPVを放ちます。出だしから自分のヌードポスターを貼っています。動画では憧れの裸エプロンです。でも料理なんかしていません。洗車です! でも、洗車の仕方がイマイチ雑なのが気になります。

Heidi




ハイジは現在も歌手、そして芸能界で活躍しています。だてに裸エプロンをしていたわけではありません!2012年には「Intim Night(親密な夜)」という番組の美魔女系司会者をやっていました。人間、時には振り切ることも大事なんですね。


こちらの記事で、ポーランドの電子音楽、エル・ムージカ(El-Muzyka)について書きました。2016年、もう一人の重要なエル・ムージカの先駆者、Władysław Komendarekに会うためにワルシャワ中心部から車で約 1 時間かかるジェラゾヴァ・ヴォラを訪問しました。 この地は、Fryderyk Chopinの生誕地としても知られる聖地で、ショパンの博物館もあります。日本からやってきた見知らぬ男のために、彼と彼の友人たちは最大級の歓迎をしてくれました。ディスコポロについて尋ねた際、みんな口ずさんでくれました(笑)。

Komendarek, Friends


彼はもともとプログレ色が強いExodusというバンドで活動していましたが、1985年にソロの電子音楽家としてデビューします。2枚目のアルバム『Dotyk Chumu (雲のタッチ)』(1987年)からの「Halo Komputer」は、タイトルからもエル・ムージカ的世界観にあふれています。

Dotyk Chumur




ショパンの生誕地に住んでいるだけあって、2011年には『Fryderyk Chopin』というショパンに捧げるアルバムをリリースしています。クラシック、電子音楽にアートロックが融合した独自のショパンの解釈がなされています。また、彼らに会うためにジェラゾヴァ・ヴォラに行きたいです。

Fryderyk Chopin


昨日の「Der Kommissar(秘密警察)」に続いて、80年代懐かしのエレクトロポップとして「Bette Davis Eyes(ベティ・デイビスの瞳)」です。Kim Carnesが歌った作品は、1981年の年間ビルボードチャートで最もヒットした曲とされています。

Kim Carnes




Carnesのはカヴァーで、原曲はJackie DeShannonのアルバム『New Arrangement』(1976年)に収録されています。ハリウッド女優のBette Davisに捧げられたこの曲はシングルカットもされず、この時点ではあまり知られぬこともないアルバムの1曲でした。原曲はR&Bが混じったようなカントリー系ポップソング。これがあの印象的なシンセリフで大ヒットとなるのです。Carnesのヒットを受けて、Bette DavisはCarnes、作者のWeiss & DeShannonに感謝の手紙を書いたという逸話もあります。

Jackie DeShannon




このシンセリフは、スコットランドのエレクトロ系、MYLOの「Into My Arms」(2004年)でもサンプリングされています。なかなか秀逸なサンプリングをする人で、当時、かなりハマりました。

MYLO




割と最近でもKylie Minogueがカヴァーしています。



当時のカヴァーを探ってみましょう。ブラジルのMarta Coracaoによるポルトガル語版「Olhos de Mulher」(1982年)。タイトルは「女の瞳」となり、Bette Davisがただの女になっています。MBPっぽくなっていますね〜。

Marta Coracao




西ドイツのシュラガー系歌手のUte Berlingは「Als Ob Sie Bette Davis War(まるでベティ・デイビスの瞳のように)」としてドイツ語カヴァー。ドイツ語の響きでイメージが変わりますね。

Ute Berling




東ドイツにもあります。オストロックの一角となるSillyによるカヴァー(1982年)。Carnes版に割と忠実です。ちなみにSillyというバンド名にいちゃもんをつけれられて、Familie Sillyと名乗っていた最後のリリース。ハチマキ姿が80年代!

Silly




チェコスロバキアのMarie Rottrovaも「Divka, ktera spi jen tak(そんなに寝る女の子)」(1984年)という全く違うタイトルで歌っています。

Maria Rottrova




「Der Kommissar(秘密警察)」というニューウェイヴ的ラップ曲をご存知でしょうか? 1981年にオーストリアのFalcoがヨーロッパでヒットさせたのがオリジナル。歌詞で使われたスラングから警察を警戒するコカインについての歌とされていますが、同時に東ドイツのシュタージ(秘密警察)を隠喩しているという説もあります。でもこの時点での日本盤シングルの邦題は「デア・コミッサー」。

Falco




1982年には、英国のAfter The Fireの英語カヴァーは1982年に米国ビルボードチャートで5位にまで食い込み、彼らの最大のヒットとなります。こちらの日本盤シングルで邦題は「秘密警察」となりました。

After The Fire




上記二つほどヒットしなかったものの、それ以外にも「秘密警察」のカヴァーが量産されました。

フランス在住の米国人で俳優でもあるMatthew Gonderによる「Der Kommissar」(1982年)。

Matthew Gonder




ノイエ・ドイチェ・ヴェレ系の女性シンガー、Suzy Andrewsのデビューアルバムに収録された「Der Kommissar」(1982年)。

SuzyAndrews




「Self Control」で有名なLaura Braniganは、歌詞を書き換えて「Deep in the Dark」としてシングルおよびアルバムに収録(1981年)。

Laura Branigan




面白いのが、イタロディスコ系のPink Projectによる「Der Kommissar」とTrioの「Da Da Da」をマッシュアップした(早い!)「Der Da Da Da」(1982年)。

Pink Project




その後もカヴァーをする人たちはいますが、注目に値するのが、ハンガリーのLajos Turiによる「A Felugyelő (ハンガリー語で同じ意味)」(1983年)。「秘密警察」のカヴァーについて書かれた記事は結構ありますが、この曲についてはほとんど語られていません。共産主義国であったハンガリーで、コカインにせよ、秘密警察にせよ、そのような匂いがする歌がリリースできたのは、驚きです。ハンガリーのリベラルな側面が窺える貴重な楽曲とも言えましょう。

LajosTuri




『共産テクノ 東欧編』ではディスコポロだけのために11ページもさきました。ディスコポロとは、ポーランドで90年代初頭に一世を風靡した「田舎の結婚式やパーティーでかかるダサいディスコ」です。そんな偏見を持たれているディスコポロですが、調べてみるとその音楽性は意外と広いです。




本日紹介するのは、Mirosław Wanat。元々はInstytucjaというニューウェイヴ系バンドで活動し、ディスコポロ・グループ、 Midiとして活動するものの、プロデューサーと喧嘩して、Ex Midiとしてデビューしました(ポーランドではよくある話)。Ex Midiの「Symbole MiłoŚci (愛のシンボル)」なんかは、ディスコポロというよりもちょっと安っぽいUltravox風です。

Ex Midi




彼のテクノポップ的指向性は、ソロとしての「My Solidarni (私の連帯) 」からも読み取れます。これは、Kraftwerkの「The Model」のカヴァーです。

My Solidarni




しかし、その後WanatはDr. Albonistaとしてエロとディスコポロの融合という独自の路線を打ち出し、現在に至っています。彼の作品群のジャケットはほぼ18禁となっております。


東ドイツにオストロックと呼ばれるジャンルがあります。「オスト」は「東」で、まあドイツの共産ロックのようなもんです。東ドイツにはカセットテープで地下出版されたアンダーグラウンドなディー・アンデレン・バンズ(Die Anderen Bands)というジャンルがありますが、それとは対照的にオストロックは国営レーベルのAmiga Recordsからリリースされていました。オストロックのサウンドは西側の影響下、時代によって変遷しますが、東側の産業ロック的なものとも言えましょう。

オストロックの代表的なバンドはPuhdys、City、Silly、Karatあたりですが、大御所のPuhdysを紹介します。彼らがテクノポップに挑戦した11作目『Computer-Karriere (コンピュータ・キャリア)』(1983年)は、東ドイツの音楽評論家には酷評されましたが、 最も売れたアルバムです。Styxの「Mr. Roboto」あたりのノリなのかと思いますが、やっぱり産業ロック的なのは長年の手癖なのでしょう。

Puhdys




本家よりお勧めは、Puhdys の元ドラマーだったGunther Wosylusが発掘したLucieというエレクトロポップバンド。Amigaのオムニバス盤には収録されたものの、オリジナル・アルバムは東西ドイツ統一後となり、大きな話題ともならず消えてしまいました。

Lucie





2006年にポーランドの少女デュオ、Blog 27が来日しています。AlaとTolaの二人は2005年にポーランドでデビューし、ポストt.A.T.u.的な立ち位置で本国で人気となり、avexを通じて日本上陸となりました。楽曲的にはヒップホップ的ポップとなっています。そういう意味では、ポストt.A.T.u.というよりも同じロシアのМИН НЕТ(ミンニェット)に近いです。

こちらが、彼女たちのヒット曲「Uh La La La(ウーラララ~あなたが♡大好き)」。
LOL




Blog 27の陰で支えたのは、Tolaの父親、Jarosław Szlagowski。彼がドラマーとして在籍していたのが、ポーランドのニューウェイヴ系バンドとしても人気があったLady Pank(後にMaanam)です。ちなみにLady Pankは「Punk→Pank」という単純なスペルミスから。彼らの代表曲の一つでもある「Mniej Niż Zero (Minus Zero)」 はThe Policeなどからの影響も伺えるホワイトレゲエとなっています。
Lady Pank




1962年にデビューしたKati Kovacsは、ハンガリーのポップス界で最も有名な歌手と言っても過言でない存在。幅広いジャンルで活躍し、ハンガリーの老舗ロックバンド、Locomotiv GTとも3枚のアルバムを70年代に発表し、東ドイツでも人気がありました。

ソ連でも、アーラ・プガチョワ(Алла Пугачёва)は80年代にテクノ化をしていますが、彼女の場合も然り。日本にもテクノ歌謡というのがありましたが、1980年という早い時期に、10枚目となるテクノ歌謡的アルバム『Tiz (Ten)』を放っています。紹介する「Kerdes Onmagamhoz(A Question To Myself) 」は、Giorgio Moroderからの影響が顕著なかなり本格的なテクノポップとなっています。

Ten




74歳となる現在も健在で、現役として活動しておられます!

本日紹介するのは、チェコスロバキアの中でもスロバキア側のアーティスト、Miroslav Žbirka。通称、Miroです。現在のスロバキアの首都、ブラチスラヴァで1967年に結成されたModusのメンバーとして活動を始め、1980年にソロ・デビュー。

Miroの父親はスロバキア人ですが、母親は英国人で英語も堪能です。曲調からも英国の香りがします。中でも僕がお気に入りの「22 Dní(22 日)」(1984年)では、彼のポップ性がテクノ化した結果、 見事な化学反応を起こしています。早すぎるネオアコのようなイントロから、突然シンセドラムが乱入するエレクトロポップは意外に心地よろしいです。

Miro




Miroの元々はバックバンド的存在だったLimitから頭角を現したのは、Laco Lučenič。ソロとなり、「Byt Plný Snov(深い眠りに)」(1987年)は、さらにニューロマンティックス度が増し、スロバキア版Ultravoxと言っても過言でない出来となっています。

Laco


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