四方宏明の“音楽世界旅行”〜Around the world

世界中のテクノポップ〜ニューウェイヴ系音楽を紹介。

2024年05月

2023年11月にロス近郊のハンティントン・ビーチで開催されたDarker Wave Festivalに行った際、最後に現れたのは、Roland OrzabalとCurt SmithからなるTears For Fearsでした。彼らの代表曲「Everybody Wants to Rule the World」「Shout」を含んだ2ndアルバム『Songs From The Big Chair』(1985年)は、全世界でヒットし、米国1位、英国1位、日本でさえ13位にまでチャートインしました。また、当時はRoland、CurtにIan Stanley、Manny Eliasが加わった4人組でした。ニューウェイヴというよりも内省的だけどメインストリームなエレクトロポップというのが、当時のイメージでした。

RolandとCurtは1978年にGraduateというモッズ系バンドを彼らの地元バースで結成します。バンド名の由来は、デビュー前に映画『卒業(The Graduate)』で使われたSimon and Garfunkelの「Mrs. Robinson」のカヴァーでライヴを始めていたことからです。ジャケ写を見ていただくと納得がいくと思いますが、髪型も服装もモッズでキメています。見た目はThe Jamに近いですが、Rolandが楽曲を手掛けていることから、パワーポップ的なモッズです。こちらは彼らの唯一のアルバムのタイトルにもなっている「Acting My Age」です。
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Graduate - Acting My Age


Graduateは2トーンでもスカ系バンドでもありませんが、この「Elvis Should Play Ska」はタイトルが示すようにスカです。モッズ+パワーポップ+スカ的要素が見事に調和しており、彼らにとっては最大のヒット曲(英国82位、スペイン10位)となりました。Elvis Costello好きにもうけそうです。他にもスカ要素がある「Dancing Night」など、1980年は、The Specialsなどの2トーンにまだ勢いもあり、その影響もあったのでしょう。
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Graduate - Elvis Should Play Ska


Apple MusicでGraduateの全楽曲を収録した『Acting My Age』が聴けます。


Graduateを抜けたRolandとCurtは、Pete ByrneとRob FIsherが結成した同郷のバンド、Neonに加入します。1980年にシングル『Making Waves』、1981年に『Communication Without Sound』をリリースしましたが、その後RolandとCurtとTears For Fears、PeteとRobはNaked Eyesとしてそれぞれ大成功を収めました。Neon時代のシングル曲は、Naked Eyesのレアトラックを集めたCD『Everything And More』に後に収録されています。ジャケ写は『Making Waves』ですが、4曲の中では『Communication Without Sound』のB面「Remote Control」がお勧めです。また、ここではTony Mansfieldのミックスの「Always Something There To Remind Me」「Promises, Promises」も収録されています。Apple Musicでも聴けます。
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Neon - Remote Control (YouTube)


では、次のヒント。
ジャマイカでレゲエヒットを飛ばした最初の白人アーティスト。


最後のヒントはこれ。
最も多くの放送禁止処分(合計11回)をBBCにくらったギネス記録保持者。例えが古くてわからない人もいるかもしれませんが、英国のつボイノリオ(代表作「金太の大冒険」)のような立ち位置です。

答えは、Judge Dreadです。「え、それ、誰?」という人もいるかと思います。諸説あるのは事実ですが、彼が1998年に亡くなった際、「Rolling Stone」誌は以下のように報じました。
Judge Dreadは25年以上のキャリアを通じて数百万枚のアルバムを売り上げ、1970年代の英国におけるレゲエの売り上げではBob Marleyに次いで2位であった。


彼の本名はAlexander Hughes。1945年に生まれの彼は10代の頃、ジャマイカからの移民も多い南ロンドンに位置するブリクストンで育ち、スカ・ロックステディの洗礼を受けました。巨漢の彼は、プロレスラー、ボディーガード、The Rolling Stonesのローディーとしても働いていました。

Judge Dreadという名前は、「ブルービートの王」の異名を持つPrince Busterの曲名から取られています。ちなみにMadnessのバンド名もPrince Buster由来で、Prince Busterの「One Step Beyond」はMadnessの代表曲にもなっています。ジャマイカ音楽の先駆者であるPrince Buster、Laurel Aitken、Derrick MorganなどはBlue Beat Recordsからリリースをした背景から、スカと呼ばれる前から、60年代初頭のジャマイカ音楽は英国でブルービートと呼ばれていました。Prince Busterは1970年に英国で「Big Five」(ジャケ写は1971年発売のアルバム『Big Five』)という際どい下ネタ歌詞のロックステディ曲をリリースします(ジャマイカでは1969年の可能性あり)。
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Prince Buster - Big Five (YouTube)


1972年にJudge Dreadはその続編と言わんばかりのシングル『Big Six』(ジャケ写は顔写真があるベルギー盤)でデビューを果たし、英国シングルチャート11位に食い込みました。その後、「Big Seven」「Big Eight」…と「Big Five」譲りの下ネタ路線で突っ走ります。結果、70年代に11枚のチャートヒットを送り込んだのです。
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Judge Dread - Big Six (YouTube) ※年齢制限あり


「Big」シリーズ以外にも合計で19枚のシングルをリリースしており、中にはかなり酷い歌詞であることが推測できるタイトルもあったりしますが、1979年にリリースした2トーンなジャケのシングル『Ska Fever / Lover's Rock』(順序が逆の表記のものある)では、両面とも「Ska fever……..」「Lover’s rock……」とヤケクソ気味にただ連呼する、でもなんか癖になるナンセンス・ソングになっています。
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Judge Dread - Ska Fever / Lover's Rock (YouTube)


また横道に逸れたスカ〜ロック・ステディ〜レゲエ記事となりましたが、Judge Dreadはレゲエ史、英国音楽史に3つの爪痕を残しました。6月4日(火)の川崎レジデンツさん主催の『Reggae & SKA MUSIC TIME』@頭バーでも、Judge Dreadを回したいと思います。

スカ歌謡の続きです。スカ歌謡の定義は、ジャマイカ産のスカを取り込んだ日本の歌謡曲です。歌謡曲の定義が厄介です。広義では全ての日本の大衆音楽となりますが、今回は芸能界的なシステムのアイドル歌謡に絞ります。また、以前All Aboutで行った山本ニューさんとのレゲエ歌謡対談では、スカ歌謡も含めたレゲエ歌謡について語り合いましたが、今回はスカに絞ります。スカの方がテンポが速く(BPM120を超えるものが多い)、リズムはタイトで(対してレゲエはリラックスした感じで残響感がある)、ホーンセクションが多用される傾向がありますが、あくまでも傾向で、判別が微妙な曲もあり、中間体的なロックステディまで入れるとグレーゾーンの世界です。この辺りを判断基準にスカ歌謡を選びましたが、スカが歌謡曲に移植され、ニューウェイヴ的文脈でツイスト、サーフ、ロカビリーなどとも合体する場合もあり、かなり感覚的な判断になってしまうことをご了承ください。

前回、本場のジャマイカでスカが流行っていた60年代におけるスカ歌謡を紹介しました。その後スカは下火となり、70年代終盤にスカはジャマイカ移民も多い英国でパンク〜ニューウェイヴ的視点で再発見され、The Specialsなどのレーベル名でもある2トーンと呼ばれるムーブメントとなります。また、共産圏も含めて英国以外でも、スカを取り入れたニューウェイヴ的な楽曲がこの時期に生まれました。こんな流れの中、80年代スカ歌謡は復興しました。では、具体的にアイドルが歌った80年代スカ歌謡を紹介します。

比較的時期的に早いものとしては、1982年にリリースされたこの2曲です。速水陽子の「やっぱり」です。速水陽子は7代目パンチガールといく記述があり、調べてみました。「平凡パンチ」がスポンサーだった「ザ・パンチ・パンチ・パンチ」というニッポン放送のラジオ番組があり、そのパーソナリティだったということ。初代には「夢で逢えたら」のシリア・ポール、同じ7代目には松田聖子もいました。当時は本名の初田順子で活動をしていましたが、池田満寿夫の命名により速水陽子となり、歌手・女優デビューを果たします。キャラとしては本人もファンだった「女ジュリー」と呼ばれていました。『やっぱり』は初シングル『い・か・が』(後藤次利がアレンジしたニューウェイヴなロカビリー歌謡)に続き、Moonridersの白井良明がアレンジしたニューウェイヴなスカ歌謡となっています。キャラとの相性もいい隠れた名曲です。ちなみに白井良明は、1990年発売のスカ歌謡、Cottonの「ラビットの玉子たち」も編曲しています。
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速水陽子 - やっぱり (YouTube)


もう一つは嵯峨聖子の2枚目のシングル『シーサイド慕情』のB面となる「恋めぐり」。両面とも後藤次利がいいアレンジ仕事をしており、「シーサイド慕情」はサーフ系(ちなみに作詞作曲は庄野真代・小泉まさみ夫妻)、わかりやすく言うと遅れてきたベンチャーズ歌謡、「恋めぐり」はサーフ風味もあるスカ歌謡となっています。残念ながら「恋めぐり」の動画音源はなく、聴く方法は彼女の7インチ・シングルまたはCD『アイドル・ミラクルバイブルシリーズ 808182 Girls』だけです。「シーサイド慕情」のテレビ収録の動画から、嵯峨聖子はぎりぎりアイドル枠と思われます。日本テレビ音楽院のザ・バーズの出身で、ソロとして2枚のシングルを出した後、1983年にシルヴィアに代わりロス・インディオスにフローレスとして加入し、1986年まで活動しました。
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嵯峨聖子 - シーサイド慕情 (YouTube)


多少間が開きますが、1986年には早見優が「キッスは殺しのサイン」でスカ歌謡に挑みます。脱歌謡曲的作家陣を迎えた全曲新曲からなるアルバム『Shadows Of The Knight』の収録曲ですが、なぜ知っていたかというとCD『テクノ歌謡 ポリドール編』に収録されていたからです。「キッスは殺しのサイン」は、作詞・小西康陽、作曲・高浪慶太郎、アレンジ・鴨宮諒と完全に裏Pizzicato V作品となっています。テクノ歌謡、スパイ歌謡、ピチカート歌謡とも言えますが、これはスカ歌謡認定したいです。
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早見優 - キッスは殺しのサイン (YouTube)


翌年の1987年にはおニャン子クラブにいたゆうゆ(岩井由紀子) が3枚目のシングルとして『25セントの満月』をリリースします。チェッカーズの鶴久政治が作曲し、Exoticsで沢田研二のニューウェイヴ化を支えた西平彰が編曲した、スカ純度が高いスカ歌謡です。オリコン6位まで行っているので、今回紹介した中では一番売れたスカ歌謡と言えるでしょう。
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ゆうゆ(岩井由紀子) - 25セントの満月 (YouTube)


80年代スカ歌謡アイドル編のラストを締めくくるのは、1988年にリリースされた本田理沙の「Lesson 2」です。作曲・編曲をしたのは、元TPOの岩崎工・福永柏コンビです。岩崎工はTPOの前は日本のBugglesと言われたFilmsのメンバー、TAKUMI名義でのソロ活動もしています。Aメロはツイスト調で、Bメロでスカ調になるランデブー型構成です。
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本田理沙 - Lesson 2 (YouTube)


アイドル歌謡のアルバムなんかにまだスカ歌謡が隠れている可能性がありますが、ニューウェイヴ系などを除いてアイドル歌謡と呼べそうな80年代スカ歌謡、知っている限り紹介しました。

最後にまたイベントの宣伝です。6月4日(火)の川崎レジデンツさん主催の『Reggae & SKA MUSIC TIME』@頭バーに参加します。ルーツ・ロック・レゲエから2トーン、レゲエ歌謡まで、幅広くスカ〜レゲエを網羅しています。僕はニューウェイヴ・レゲエとレゲエ・スカ歌謡担当します。
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今日は6月4日にイベントを控えていることもあり、スカ歌謡について書きます。歌謡スカ、和モノスカと呼ぶ人もいますが、どれも浸透しているジャンル名とは言い難いです。レゲエ歌謡の兄とも言えますが、レゲエ歌謡以上にその希少性は高いです。

小国ながらジャマイカは、スカ、ロックステディ、レゲエといったジャンルを産み出してきました。大体ですが、スカは60年代前半、ロックステディは60年代後半に流行期を迎え、60年代終盤以降はレゲエが主流となります。スカはレゲエのルーツと言えますが、両者の共通点はオフビート、裏打ちビートです。一般的にレゲエの方がテンポは遅くオフビートがより強調され、スカの方がよりストレートなリズムです。また、スカではトランペット、トロンボーン、サクソフォンなどの金管楽器が使われ、レゲエではメロディカ(鍵盤ハーモニカ)が使われる傾向があります。

Bob Marleyの自伝的映画『ONE LOVE』でもThe Wailersが「Simmer Down」を演奏するシーンがありますが、これは1964年にリリースされたスカ曲です。また、映画のタイトルとなった「One Love」も元々はスカでした。
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Bob Marley & The Wailers - Simmer Down (YouTube)


スカを世界に知らしめた曲として有名なのが、1964年のMillie Smallの「My Boy Lollipop」です。原曲はドゥーワップ系のThe CadillacsのRobert Spencerが書き、1956年に米国のBarbie Gayeが「My Boy Lollypop」としてリリースしましたが、Millieのカヴァーは米国・英国で2位など世界中でヒットとなりました。
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Millie Small - My Boy Lollipop (YouTube)


僕はまだ小さすぎたので当時聴いた覚えはありませんが、海外の流行ジャンルを歌謡曲に取り込むという、リズム歌謡の流れにあった日本でも、同年、伊東ゆかり、中尾ミエ、梅木マリがカヴァーしています。伊東ゆかり版は「ロリポップ」ではなく、「ラリポップ」と書かれています。彼女は1958年に「Lollipop」を「ラリパップ(誰かと誰かが)」という邦題でカヴァーしたので、その流れで少しだけ修正してラリポップで押し切ったのだと思います。
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伊東ゆかり - マイ・ボーイ・ラリポップ (YouTube)


同じ年にリリースされたのは、寺内タケシとブルー・ジーンズの『レッツ・ゴー・クリスマス』に収録の「ブルー・クリスマス(スカ)」。ご丁寧にも「スカ」であると表示されていますが、よーく聴かないとわからない微妙なスカ・アレンジで、エレキなラウンジ曲に聴こえます。
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寺内タケシとブルージーンズ - ブルー・クリスマス (YouTube)


オリジナルのスカ歌謡として孤高の存在感を誇るのが、中川ゆきの「東京スカ娘」です。カップリングは、黒田ゆかりの「スカで踊ろう」でスカ推しが激しいです。
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中川ゆき – 東京スカ娘 / 黒田ゆかり - スカで踊ろう (YouTube)


中川ゆきは社交ダンスの父と呼ばれる中川三郎の三女です。中川三郎は、タップダンス界の祖、日本のディスコの産みの親とも表され、1965年には日本初のディスコとされる「中川三郎ディスコティック」を恵比寿に開業させました。ディスコのオーナーでもあったのは中川ゆきで、彼女もタップダンサーであり、女優・歌手として活躍をしました。朝ドラ『ブギウギ』に出演していたタップダンサー役の中山史郎のモデルは中川三郎です。

また、中川三郎ダンス・オーケストラとしてリリースした『さあ踊りましょう<第三集> 青春のステップ -ラテン・アメリカン特集』(1965年)は、当時流行のダンスナンバー集となっており、「マイ・ボーイ・ロリポップ」も収録されています。残念ながら、チャチャのアレンジのようです。ジャケットに写っているのは、中川三郎と中川ゆきでしょう。
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ここまでが60年代のスカ歌謡の動向となります。70年代になり、ジャマイカではレゲエに移行し、1979年に2トーンのムーヴメントが起こるまでスカ自体は盛り上がることもなく、70年代において日本でもスカを取り入れた楽曲はほぼありません(レゲエはそこそこありました)。ということで、続編は80年代となります。

最後にイベントの宣伝です。6月4日(火)の川崎レジデンツさん主催の『Reggae & SKA MUSIC TIME』@頭バーに参加します。ルーツ・ロック・レゲエから2トーン、レゲエ歌謡まで、幅広くスカ〜レゲエを網羅しています。僕はニューウェイヴ・レゲエとレゲエ・スカ歌謡担当します。
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去年の12月8日にControlled Voltageの発掘音源3枚について「Controlled Voltageの発掘音源」というタイトルで書きました。予告通り、残り3枚も出来上がりました。こちらは、今回の発掘活動に向けてのチラシとなります。なぜか、「#終活」とのタグが入っております。
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今回、新たに発表された3作品の紹介に加えて、稲見淳さんご本人にも確認をし、これまで発表された作品を時系列に並べて、Controlled Voltageの軌跡を辿ってみました。

Controlled Voltage『USED UP AND EMPTY』
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カセットテープでリリースしたライヴ音源5曲(1993年)にPCで観れる動画を加えたもの。動画は「USED UP AND EMPTY」というタイトルで、バンド的なControlled Voltageのサウンドとは方向性は違い、後半はアシッドハウス的な指向が見えます。

当時、Controlled Voltageはブラウン管のテレビ6台とかを持ち込んで、映像を投影してライヴをしていました。映像担当の野間靖さんがAmigaを使ってリアルタイムであらかじめ仕込んだ映像にエフェクトをかけたものなどを流していました。新曲をを作る際、稲見さんはデモ前のスケッチ的な音源を渡し、杉本敦さんがMacで画を描き、野間さんが映像を考えるという共同作業をやっていました。その過程で作られた楽曲や映像としてボツになったものが編集されたのが、「USED UP AND EMPTY」です。

しかし、ここからその後楽曲として完成したものもあり、冒頭のMacの画面のところは「LABYRINTH」、その次の花が開くようなCG(「USED UP AND EMPTY」のジャケに使っているもの)の曲は「4GATSU」に、ビデオ最後の、ゆがんだギアが流れていくようなCGの部分は「FREE WHEELS」という曲になりました。メンバー全員が80年代からCabaret Voltaireのファンだったこともあり、インダストリアル要素を好んでいましたが、ハウス路線もカッコいいということとなり、アシッドハウス的な要素が入っていきます。

Controlled Voltage『LOST AND FORGOTTEN+』
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「+」がない『LOST AND FORGOTTEN』という過去スタジオ音源を編集した作品が2002年にC.U.E. Recordsからリリースされています。ここからの12曲中の8曲が今回の『LOST AND FORGOTTEN+』が収録されています。また、その元となったのは、XD FirstClass Networkからリリースされた『XD-Submit Vol.1』(1994年)〜『XD-Submit Vol.3』(1995年)です。

この8曲には、Controlled Voltageの音源に加えて、稲見さんの「X-DAY」、MASAさんの「SPOROPHYTE」、OBIさんの「EDEN」からなるソロ名義作品が含まれています。これらのソロ名義作品は、Controlled Voltageとして活動しながらも、メンバーの個性や趣向の違いを表現する意図もあったようです。

これら8曲のスタジオ音源に加えて、1994年のライヴ音源3曲、Controlled Voltage結成前の貴重な音源(最後の3曲)を加えて出来上がったのが、『LOST AND FORGOTTEN+』となります。ライヴ音源「O.F.-2」を含んだ最後の3曲は1987年頃で、まだControlled Voltageが結成されておらず、稲見野間ユニットという仮名義で不定期で録音とかをしていた時期です。ちなみに「O.F.-2」で野間さんは自作のエフェクター、リングモジュレーターを使ってギターでノイズを出し、稲見さんは、仕込んだ8トラック・オープンデッキのミックスと、2トラック・オープンデッキにテープを擦ってスクラッチ的なことをやっています。野間さんは実質的にはマルチメディアとしてのControlled Voltageのメンバーだったと言えるでしょう。

7曲目の「SEEK」はUltravox的疾走感があります。8曲目の「SPOROPHYTE」は、ドラマーのMASAさんのクレジットがあり、教授曲をイメージさせるインストルメンタル曲となっています。

Controlled Voltage『DIFFUSION』
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こちらは、稲見淳さんの一人ユニットとしての再始動したCV。偶然なのかもしれませんが、CVはCabaret Voltaire(スイスにあったキャバレーの名前にちなんでいる)の頭文字でもあります。稲見さんに確認したとろ、偶然ではなく、Cabaret Voltaireへのオマージュとのこと。以下、稲見さんからの回答です。

そもそも、Voltage Controlledとか、Controlled Voltageというのは、昔からのアナログシンセの使い方で初歩から使う言葉なんですが、僕らは電圧制御されているんだ(Kraftwerkのロボットなイメージ)とか、シンセ機材すごいぞ的なメディア操作も狙っていますが、Cabaret Voltaireからのオマージュです。まずはバンド名を決めないと、カセット作っても営業も出来ないので、シンセ使いの自分としても、もう、これでいこうと思ったと思います。あんまり深く考えず、他の名前とかも候補はなかったんですが、今頃になっても憶えてくれている人たちがいてびっくりしています。


晩年に一人でCabaret Voltaireとしても活動していたRichard H. Kirkは、Muteから2020年にアルバム『Shadow Of Fear』、2021年に最終作となるドローン系の長尺曲『Dekadrone』『BN9Drone』を発表後、 同年9月に他界しました。稲見さんは彼への追悼も意味も込めて、このアルバムを一人で作ったとのことです。

さて、これまでの作品を録音時期を考慮して、時系列に追ってControlled Voltageの軌跡を整理してみましょう。

1987年〜1991年:CV結成前夜
Controlled Voltageはまだ結成されていませんが、稲見さんと映像担当の野間さんの二人で録音、ライヴを行っていました。『LOST AND FORGOTTEN+』の最後の3曲は1987年頃の活動の足跡となります。

1991年〜1992年:黎明期→4人体制
稲見さんは、ヴォーカルが必要ということで、まずは杉本さんと活動を始める。これを黎明期と考えると、『DUST TO DIGITAL』がこの時期の音源と考えられます。その後、ライヴ中心のバンドをやりたいということから、旧知のドラマー、MASAさんが加入します。

バンドは3人ではなく4人と考えていたところ、雑誌のメンバー募集でシンセオタクの福間さんの加入で4人となります。『UN OFFICIAL LIVE TAPES』に収録の1992年の動画「LIVE ELECTRONICS」や『USED UP AND EMPTY』のライヴ音源(「MICRO KERNEL」「INFORMAL」〜事情により杉本さんはライヴ欠席)では4人バンド体制となっています。

1993年〜1995年:4人体制→3人体制→4人体制 
1993年のライヴ音源が収録された『MIND ACCELERATOR』では4人の名前がクレジットされています。

CVの「closed eyes view」が収録された、加藤賢崇さんがプロデュースしたオムニバス・アルバム『トロイの木馬』が1993年に発売。福間さん繋がりで進んだ企画でしたが、CVには未発表音源が無かったので、納品〆切の都合で、稲見さんが歌ったとのこと。

Controlled Voltage - closed eyes view (YouTube)


しかし、『トロイの木馬』リリース記念ライヴを最後に福間さんは脱退し、1994年にP-MODELに加入となります。3人体制となったControlled Voltageの音源は、『USED UP AND EMPTY』のライヴ音源1〜3曲(「MAMBO」「GRAYOUT」「4GATSU」)、『UN OFFICIAL LIVE TAPES』の頃です。MASAさんはスタンディングではなく、座ってドラムセットで叩くようになり、スネアは生ドラム、キックとタムのみシモンズ、そしてロートタムという複雑でPAミキサー泣かせのドラムセットを、同期バンドでクリック無しで叩く女性ドラマーはなかなかいなかったとのこと。かなり、研ぎすまされたというか、逆に精神的にもキツくなっていった時期との稲見さんの弁があります。

1994年に3人体制+映像担当の野間さんから、OBIさんが加わり、4人体制に戻ります。『USED UP AND EMPTY』ライヴ音源、『LOST AND FORGOTTEN+』のCVスタジオ音源+ライヴ音源(「O.F.-2」を除く)などで、この第2期4人体制のCVとなり、1995年まで活動をしました。

2024年:一人CV再始動
稲見さんが発掘音源のリリースに加えて、一人CVとして『DIFFUSION』で再始動を果たします。

彼らの作品から、CVは関西のニューウェイヴ・シーンで異彩を放っただけでなく、90年代に現れたインダストリアル・テクノ・ハウスなどの要素を吸収しながらも、英国的耽美系のニューウェイヴとして稀有な日本のバンドだったことが感じ取れます。

興味を持っていただいた方は、CAVE Studioを訪れてみてください。

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